ツマラナイ人間になってしまったのか。

 自分は、そうはなりたくないといつ頃から思っていただろうか。自分が周りと違うという事をASDのため先天的にそうであると、自分の認識に組み込んでいた。

 だから、僕は「除け者にされてきた奴ら」の文化に「自分の都合のいい程度」に傾倒していった。僕の中では最初に影響を受けたいと思った大槻ケンヂに始まるサブカルチャーであり、最近だとSF映画「チャッピー」で扱われていた「Zef」と呼ばれるカウンターカルチャーだ。

 けれども「都合のいい程度の傾倒」を繰り返した結果は決して都合のいい現実ではなかった。実際僕は「Zef」の事について追求するのを容易く諦めてしまった。文化を知ることは歴史や出来事への想像力と感受性を強く必要とする。精神的不勉強さと物質的機能不全な僕の脳の溝は知恵の輸入を阻む。

 僕の部屋に無造作に積まれた数々の著作はどれも手つかずだ。集中し深くコンテンツを味わう胆力のない、やせ細ったやや欝な脳と腕から先パーツが今日のオカズを探し回りマウスを鳴るか鳴らないかの音でカチッ…「目標をセンターに入れてスイッチ…目標をセンターに入れてスイッチ」。

 最近はAV女優というタグのついていない個人の撮影した映像を好んで見ている。性的欲求を解消するための消費すら、抽象化の一途をたどっているように思えてならない。そこに追従の美学こそあれど、想像力は伴わないと感じる。追従の美学といっても、コレクター精神だとか、マニアだとかそういう領域に踏み込むことを言いたいのだけれど、僕はそれに発生する労力にもついていけない。

 こんな糞漏らし人間の性的な消費の話をしてなにが言いたかったかというと、今より若かった頃に憧れた「サウンドノベル」一日をオナニーに費やしてプレイした「エロゲー」それを僕の為の文化だ!と嬉々としてプレイしていた労力でさえ今では煩わしく感じてしまう感受性…。今の僕という人間は、つまるところツマラナイ。

 僕の夏はもう死に、終わっている。

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